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2006年12月31日

伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』(創元推理文庫)

伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』(創元推理文庫)伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』を読んだ。

現在と過去が交互に描かれる構成は、ミステリ読みにすぐさま叙述系のトリックを想起させる。その意味で、この本の仕掛けを予測するのはそう難しいことじゃない。著者の作品中、最もシンプルな部類のミステリだろう。そして著者の世界を知るにはうってつけの作品だ。

もちろん、メイントリックともいえる大仕掛けがあるからといって、そればかりが魅力の作品というわけではない。ぼくなんかはむしろ、ミステリ部分にはそれほど執着していない。どちらかといえば文章やキャラクター造形にこそ、著者の個性は炸裂している。

登場人物たちの言動はときに非現実的で、行動原理は浮世離れして一途だ。ファンタジックといい換えてもいい。現代日本を舞台にしてはいるけれど、繰り広げられる人間模様はあまりに心地好い絵空事である。そこに現実の不条理として卑劣な犯罪が紛れ込んでくる。

お陰で本筋はどこまでもやりきれない話だ。

中盤以降、読者は否応なく最悪の事態を予想させられる。この辺りの筆運びは実に達者である。厭な予感よ、どうか当たらないで欲しい。そんな思いに駆られながら、ページを繰る手が止められない。厭な想像は膨らむばかりである。そして、それは現実のものとなってしまう。

しかも、その悲劇は冷静な判断と適切な行動によって防げたかもしれない類のものである。圧倒的な力による悲劇ではない。これがなんともいえないシコリを残す。単純で納得しやすい大義名分は生まれない。ここが肝要である。これは決して勧善懲悪の英雄譚ではないのである。

死者のためではない。現実と折り合いをつけるための闘いが、ここから始まる。現在視点の主人公は、その仕上げ段階に付き合わされる。これが著者らしいヒネリの効いた導入となっているのはさすがだ。最もリアルな場面をファンタジーでカムフラージュすることに成功している。

一見「河崎」と「ペット殺し」の闘いは、ファンタジーとリアルの闘いのに見える。けれども、ファンタジーに酔いたい読者にとって、後に明らかになる「河崎」の闘い方は受け入れ難いものかもしれない。モラルの問題でいうのではない。それがリアル側のやり方だからである。

とはいうものの、彼は最後までリアルに着地することはない。そもそもが、リアルを飲み込む形でファンタジーを生きている。だから、彼は最後にコインロッカーの前でいう。これは「代用品」なんだと。分かってやっているのだと宣言しているようなものである。

不条理な現実を生きる、これはひとつのヒントでもある。

ところで、“陽気なギャングが地球を回す”に続いて、この『アヒルと鴨のコインロッカー』映画化されている。すでに撮り終えていて、2007年5月以降、物語の舞台となった仙台を皮切りに、順次全国公開となるようだ。映像化する小説としては、悪くない選択だと思う。

叙述トリックの処理が多少気にかかるところではあるけれど、キャラクターにスポットをあてて見るなら、かなり実写向きの題材だ。これまでの伊坂作品の中でも、最も分かりやすくストレートな作品である。キャスト名を見る限り、配役にも特に違和感はない。

そして主題歌にはちゃんと‘風に吹かれて’が使われている。


【関連リンク】
・Bob Dylan ‘The Freewheelin' Bob Dylan’

2006年12月26日

山本弘『神は沈黙せず』[全2巻](角川文庫)

神は沈黙せず山本弘『神は沈黙せず』を読んだ。

饒舌な作品だ。それは美点でもあり欠点でもある。実は、ぼくはこの著者のことをまったく知らなかった。だから、何の予備知識もなく読んだのだけれど、知っている人はその饒舌の源泉を直ちに理解するに違いない。彼は“と学会”の会長として知られた人物だったのである。

いわゆる超常系やトンデモ寄りな学説のデータベース的な記述がとにかく多い。それも衒学的というのではない。ただただ論証のためのデータとして列記されているような印象である。これはもう興味のない人には苦痛以外の何ものでもないに違いない。とにかく膨大な情報量だ。

そして、論証の矛先は「神」である。

その存在と意図を、圧倒的な量の傍証を縒り合わせることで解き明かそうというのである。とてもスリリングな試みだ。“マトリックス”的世界の想像など新しくはないし、量子コンピュータによるシュミレーションという発想も珍しくはない。そうした外側の驚きを主眼とした作品ではないのである。

物語に緻密なディテールがあり、ダイナミズムも申し分ない。惜しむらくはそれに表現力がついてきていない。キャラクターはえらくステレオタイプだし、形容表現は相当に陳腐だ。これほど面白いのに文章に酔えないというのは実にもったいない。唯一の欠点だろう。

けれども、その欠点がこの作品に限っては致命傷とならない。

その無邪気ともいえる素朴さは、物語自体の真摯な姿勢とうまく結びついている。視点人物となるジャーナリストに顕著な青臭い潔癖さや生真面目さが、このテーマにおいて必要不可欠だったのだとすれば、この不器用な筆致は必ずしもマイナスに働いてはいないのである。

物語は中盤以降、カルトとの対立といった構図を見せる。喩えるなら、平井和正『幻魔大戦』における‘GENKEN’設立以降の東丈を仮想敵に置いたような展開である。決して幻魔のような異様な熱気や狂想をイメージさせるという意味ではない。方法論としては180度違っている。

これは熱狂の外にある理性をストレートに描く作品だからである。

秀逸なのは、その理性が理性を打ち壊すような結論に到る皮肉である。それは理性が幸福を担保しないといっているに等しい。著者は「人は自分が信じたいものしか信じない」という身も蓋もない真理を最後までひっくり返すことをしないのである。これ自体がテーマといってもいいかもしれない。

固定観念を攻撃する意図で書かれた様々な批判は、正直にいえば思慮が浅いといわざるを得ない。この辺りはもう少し編集部のバックアップがあってもよかったんじゃないかとも思う。けれども、こうした瑕瑾を論っても意味はない。もっといえば、神の考察を外れる部分はオマケである。

面白い作品が必ずしも「良くできた」作品である必要はない。

こういう小説を読むと改めて思う。

2006年12月12日

山本周五郎『青べか物語』(新潮文庫)

山本周五郎『青べか物語』(新潮文庫)山本周五郎『青べか物語』を読んだ。

ぼくは時代小説をあまり読まない。だから、山本周五郎のような大作家の作品を、実はほとんど読んでいない。もったいないことだと思う。今回だって、数ある著者の名作の中から、いきなり風変わりな『青べか物語』などに手を出したのは純然たる偶然である。

著者の文庫が並ぶ棚の一番左端の作品を取った。それがたまたまこの本だったのである。山本周五郎を読もうと、それだけを決めていた。今風の文章ばかり読んでいたせいだろう。とにかく滋味のある小説に触れたかった。悪くない判断だったと思う。

小説の主たる舞台は大正末期から昭和初期の浦安だ。作中では浦粕となっている。これは著者が二十代半ばの数年を過ごした経験を下敷きにしながら、決して私小説ではないという暗黙のサインなのかもしれない。いずれ、このリアリティの源泉が実体験にあることは間違いない。

一読、まず思い知るのは描写の力だ。

選ばれる文体、選ばれる文字、そして編まれる文章が、そのすべてで浦粕の町を活写する。昭和初期の千葉など想像もできないぼくの脳裏に、その情景はあまりに活き活きと立ち上がってくる。ファンタジックな郷愁すら感じるのである。

その世界に包まれてしまえば、後は「私」に寄り添うように浦粕という閉じた楽園に漂っていればいい。「私」は多くの町の住人の傍を通り過ぎていく。僅かなドラマが生まれることもあるけれど、概ねそれは彼らが彼らの世界で演じる独り芝居のようなものである。

尋常なコミュニケーションは端から放棄されている。

浦粕の描写が豊かであればあるほど、「私」はどんどん希薄になっていく。傍観者の立場を徹底して守り通す。淡々と思考する道化である。彼のフィルターを通して滑稽さや悲哀が精製されてくる。そんな視点人物の透明性が、折々に語られるエピソードを純化し印象付けている。

いい換えれば、「私」は町からすれば無も同然なのだけれど、町は「私」の感受性を大いに刺激し続ける。それは束の間の隣人なればこそ、見ることのできる景色なのである。それを「愛すべき」というような小奇麗な形容詞で表すことはできない。

到るところから理不尽や不条理が溢れ出ている。

これらの挿話の中にある種の寓意や警句を見るのは間違いではないだろう。けれども、それがこの物語の真価では、たぶん、ない。「巡礼だ、巡礼だ」と自らにいい聞かせ、結局は浦粕から逃げ出した「私」が、その後二度の浦粕再訪で感じるのはただ「かなしさ」である。

30年後の浦粕に青べかや蒸気河岸の先生の痕跡はない。どうにもならない現実への哀しみや憤りが、それらに負けない生命の脈動とともに心中を吹きすぎる。塵は飛び去り、澱が沈みきった後に残る上澄み。そこからペーソスと一緒に掬い取られる何か。

今、彼の地はディズニーリゾートなる巨大テーマパークと化している。

2006年12月03日

大槻ケンヂ『グミ・チョコレート・パイン パイン編』(角川文庫)

大槻ケンヂ『グミ・チョコレート・パイン パイン編』(角川文庫)大槻ケンヂ『グミ・チョコレート・パイン パイン編』を読んだ。

ぼくが大槻ケンヂに触れたのは音楽よりも文芸が先だった。処女詩集『リンウッド・テラスの心霊フィルム―大槻ケンヂ詩集』である。その暗い詩情に否応なく引き込まれた。その後読んだ『くるぐる使い』では、小説でもここまでやれるのかと瞠目した。

今挙げた2作に『新興宗教オモイデ教』を加えた3作を読めば、誰しも著者の才能を認めないわけにはいかないと思う。どろどろとした内面をこれ以上ない比喩と独特の言葉で綴る詩、計算され作り込まれた展開を見せる短篇小説、有無をいわさぬテンションで駆け抜ける長篇小説。

軽妙なエッセイ群とは別次元の作品たちである。

ただ、おそらくこの著者は執筆時の心境が如実に作品に表れるタイプの作家だ。基調となる精神性が作品毎にゆらゆらと移り変わっていく。それは彼が作り続けている音楽を聴いても分かる。特に筋肉少女帯解散前の最後期における変化は見逃せないものだった。

この変化を大まかな印象で語るなら、諦念と前進といった感じだろうか。特に初期作品に見られた他を寄せ付けない完全に内向きな情念は、現実との摩擦に擦り切れ少しずつ影を潜めていく。1980年代狂気の中にいた著者は90年代半ば狂気を外から眺めるようになる。

ダメでも内に向かえという負のベクトル信仰のようなものが揺らぎはじめたとき、筋少は事実上活動を停止してしまった。その帰結として1998年発売のベストアルバム“SAN FRANCISCO”中の新録‘サンフランシスコ10イヤーズ・アフター’は誰もが泣けるカルトの名曲となった。

グミ・チョコ・パイン3部作では、1993年のグミ編と1995年のチョコ編までは後期筋少的なドロリとして無様な情念の客観化の物語である。対して、2003年の完結作パイン編は主人公たちに不条理な外の世界を見せた上で、その背中を外に向けて押す形の作品になっている。

この変化がファンの間で賛否を呼んだというのは分かる。前2作がマイナーでアングラな青春を無様ながらも肯定する作品だったとすると、パイン編は完全に飛躍してしまっている。クンフー映画のお約束的挿話といい、ヒロインの唖然とする変貌振りといい、とにかくトンでいる。

それは多分、妄想を超える不条理としての現実を戯画化して見せているのだろう。主人公ケンゾーが抱えるヒロイン美甘子への妄執と、現実の美甘子の奇行は、その意味で好対照となっている。現実は妄想よりも奇なり、である。やりすぎでも、これがオーケン流なんだろう。

そして青春モノとしての安易なシンパシーは無残に打ち砕かれる。

ダメなものはダメという筋少期から受け継がれる身も蓋もない定理をどうラストで打ち破ってくれるのか。通読してきたファンにはこれがひとつの焦点となろう。ところが、なかなかケンゾーの行く末に光は見えてこない。完結篇の大部分がどん底という悲惨さである。

著者独特の道化たユーモアが、その悲惨な色を幾分和らげているとはいえ、読む人によってはかなり身につまされる展開だと思う。ケンゾーが露呈する弱さはあまりに胸に痛い。それでも著者はどうにか彼を外のステージに立たせようと筆を走らせる。

結果、甘い妄想はとことん否定され、現実に戦いを挑んだギリギリの努力に対してだけ、僅かな希望が提示されることになる。そしてたとえば、妄想の中で幸せに暮らしました、といった昔の著者が見せていたような暗く甘美な絵は、最後まで描かれることはない。

悲しく可笑しくも感慨深い完結篇だった。

2006年12月01日

畠中恵『ねこのばば』(新潮文庫)

畠中恵『ねこのばば』(新潮文庫)畠中恵『ねこのばば』を読んだ。

これはもう、時代モノのなりをした現代モノである。いや、時代考証が不味いとか携帯電話が出てくるとか、そういうことではまったくない。ただ、描かれるのが極めて今風の犯罪なのである。そのせいか、これまでのシリーズでは最もミステリ色が強い作品になっている。

この作品は人気シリーズ『しゃばけ』『ぬしさまへ』に続く第3弾である。これまでの2作は主人公にして甚く病弱な若旦那、太郎を巡る思うに任せない人生の悲哀こそが物語の根っこだった。ところが、今回は彼が自己を見詰めるよりは、幾分外に向いた話になっている。

ミステリ色が強いというのは、太郎がいつにもまして探偵らしいということでもある。従来風なのは最後の1篇くらいだろうか。お陰で太郎の将来や家や家族についての掘り下げがあまり見られなかったのは、シリーズファンとしては少々食い足りない気がしないでもない。

ただし、その分視野が広く取られていて、収録の5篇にそれぞれの面白さがある。冒頭の「茶巾たまご」など、推理ものとしては少々牽強付会な印象もあるけれど、全体としては多彩なミステリ的趣向が鏤められていて、シリーズファンならずとも楽しめる内容になっている。

たとえば、他とは少し雰囲気の違う「産土」などは、ミステリ好きならお馴染みの仕掛けにニヤリとするだろうし、そうじゃないシリーズファンには思わずヒヤリとする内容になっている。唯一純粋にファン向けなのは最後の「たまやたまや」くらいだろう。

また、最初に書いたとおり、いくつかの短篇で起こる犯罪は、明らかに現代的な犯罪のカリカチュアとして描かれている。表現として矛盾しているようだけれど、これが実にアクチュアルな時代モノなのである。当たり前が通用しなくなった時代の犯罪といってもいい。

中でも特徴的なのは動機を巡る描写だ。

価値観の多様化が喧伝されるようになってもうずいぶんになる。その帰結として、ぼくたちはついに他人と本当の意味で何かを分かり合うことなどできないことを知ってしまった。それは犯罪を扱う小説では動機を描く困難を意味している。

どんなに突飛な動機でも、そういう人もいるだろうね、で済まされてしまう。そんな世界で納得のいく動機を捻出しようと頑張るくらい馬鹿馬鹿しいことはない。いまや、動機に焦点を当てることは、即ち、ディスコミュニケーションを描くことなのである。

これは時代モノではあまり見かけないアプローチだと思う。

そもそもこのシリーズは、キャラクターにだけ注目すれば、最初から至極現代的な性格付けがなされていた。その現代的要素がますます強くなったのがこの3作目なのである。そのせいで、時代特有の事物の描写を除けば、読んでいてほとんど時代モノを意識することはない。

推理小説はあんまりだとか、時代モノは大の苦手だとかいう人でも、問題なくすんなり読める作品だと思う。前2作で前面に出ていた主人公周辺の少々心に重い諸問題も、今回はかなり後景に引いている。その点でも、初めての人に優しい作りといえるだろう。

いずれ読者を選ばない良作である。

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管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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