山本周五郎『青べか物語』(新潮文庫)

山本周五郎『青べか物語』(新潮文庫)山本周五郎『青べか物語』を読んだ。

ぼくは時代小説をあまり読まない。だから、山本周五郎のような大作家の作品を、実はほとんど読んでいない。もったいないことだと思う。今回だって、数ある著者の名作の中から、いきなり風変わりな『青べか物語』などに手を出したのは純然たる偶然である。

著者の文庫が並ぶ棚の一番左端の作品を取った。それがたまたまこの本だったのである。山本周五郎を読もうと、それだけを決めていた。今風の文章ばかり読んでいたせいだろう。とにかく滋味のある小説に触れたかった。悪くない判断だったと思う。

小説の主たる舞台は大正末期から昭和初期の浦安だ。作中では浦粕となっている。これは著者が二十代半ばの数年を過ごした経験を下敷きにしながら、決して私小説ではないという暗黙のサインなのかもしれない。いずれ、このリアリティの源泉が実体験にあることは間違いない。

一読、まず思い知るのは描写の力だ。

選ばれる文体、選ばれる文字、そして編まれる文章が、そのすべてで浦粕の町を活写する。昭和初期の千葉など想像もできないぼくの脳裏に、その情景はあまりに活き活きと立ち上がってくる。ファンタジックな郷愁すら感じるのである。

その世界に包まれてしまえば、後は「私」に寄り添うように浦粕という閉じた楽園に漂っていればいい。「私」は多くの町の住人の傍を通り過ぎていく。僅かなドラマが生まれることもあるけれど、概ねそれは彼らが彼らの世界で演じる独り芝居のようなものである。

尋常なコミュニケーションは端から放棄されている。

浦粕の描写が豊かであればあるほど、「私」はどんどん希薄になっていく。傍観者の立場を徹底して守り通す。淡々と思考する道化である。彼のフィルターを通して滑稽さや悲哀が精製されてくる。そんな視点人物の透明性が、折々に語られるエピソードを純化し印象付けている。

いい換えれば、「私」は町からすれば無も同然なのだけれど、町は「私」の感受性を大いに刺激し続ける。それは束の間の隣人なればこそ、見ることのできる景色なのである。それを「愛すべき」というような小奇麗な形容詞で表すことはできない。

到るところから理不尽や不条理が溢れ出ている。

これらの挿話の中にある種の寓意や警句を見るのは間違いではないだろう。けれども、それがこの物語の真価では、たぶん、ない。「巡礼だ、巡礼だ」と自らにいい聞かせ、結局は浦粕から逃げ出した「私」が、その後二度の浦粕再訪で感じるのはただ「かなしさ」である。

30年後の浦粕に青べかや蒸気河岸の先生の痕跡はない。どうにもならない現実への哀しみや憤りが、それらに負けない生命の脈動とともに心中を吹きすぎる。塵は飛び去り、澱が沈みきった後に残る上澄み。そこからペーソスと一緒に掬い取られる何か。

今、彼の地はディズニーリゾートなる巨大テーマパークと化している。

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当方、ここ数日ネット接続が不安定で自分のサイト更新にも苦心しましたが、やっと辿り着いてじっくり読ませていただきました。

歴史小説好きとして山本周五郎作品は外せません。
が、おっしゃるように「青べか物語」は歴史という認識とはズレますが、好きな小説です。「樅の木は残った」と双璧です。

懐古趣味かもしれませんが、浦粕が陸の孤島であったころの風景や個性的な住人たちを活写した文章は実に味わい深く、地方色が豊かであった時代を感じさせてもくれます。
テーマパークは特別好きでも嫌いでもありませんが、かつてはニホンカワウソも棲んだ地がアメリカ産ネズミーランドに取って代わったと思うと、勿体無いような残念なような・・・
実際には見たこともない景色に郷愁を感じ、町を逃げ出し人々に忘れられた蒸気河岸の先生のように、古い浦粕も忘れられてゆくことを寂しく思わせる山本周五郎の筆致は流石です。

ばむさん、いらっしゃいませ。
今回の移転で縁が途切れる方も少なくないのだろうと予想しているだけに、こうしてこちらにも顔を出していただけたことを嬉しく思います。

『青べか物語』のような作品を読むと、ある種の郷愁と共に、地方色と地域格差というのは一事の表裏なのだと思い知らされます。インフラの普及が地方に富を齎し、代償として均質化を招いたことは否定できません。とはいえ、これは善悪で割り切れるような問題ではないでしょう。少なくとも、繁あねや白い人たちのような存在を地方色の代償として肯定する人はいないはずです。

一方で、町の住人たちはその環境だからこそ活き活きと力強く生きている側面もある。そういった物事の多義性を認め、単純化せず、古き良きなどというステレオタイプをやらなかったことで、より奥行きのある作品になっているんでしょうね。

この記事で『青べか物語』読もうと思いました。
実はいままで短編くらいしか山周は読んでません。
背中を押された思いです。ありがとうございます。

minami18thさん、いらっしゃいませ。
ぼくも山本周五郎はほとんど読んできませんでしたが、これを読んでその面白さを再認識しました。今後折に触れて手に取ることになると思います。同じように、この記事がminami18thさんの読書ライフを豊かにする一助になればいいのですが…。

「私」が語り部で旦那衆(今の有力者)ではない人たちのありったけの形象が描かれていて、もう少しで「私」が消えそう。
彼、山本周五郎さんが、あと、十年生きていたら、「私」が消えて、ぼくたちの真実が描かれたのかも知れないと思う。お兼さんや五郎さん、留さん……つまり、水夫や飲み屋のおかみ、魚屋さん、工場人夫とは、ワンコールワーカー、契約、カップル寮の三交代ワーキングプア、ホームレスといったぼくたちの真実のありったけを描いてくれたにちがいない。
彼は、63歳で死去して、それが途絶えてしまった。


あなたはたくさん本を読むひとのようなので、「青べか物語」のあとを継ぐひとに心当たりはありませんか?

田中洌さん、いらっしゃいませ。
「青べか」を継ぐような個性がいるのかどうか、ぼくは寡聞にして知りません。今、仰るような人たちの姿を書く人はきっといると思います。けれども、それはあってはならないものとして、あるいは社会が生んだ歪みとして描かれるような気がします。

文化レベルで比較して底辺にいるような人々は、いつの時代にも当たり前にいて、彼らは彼らの世界でその生を謳歌してきたはずです。それをただそういうものとして描くには、まず本当の意味で価値の多様性を認めていなければならないのだと思います。

切実で身近な人たちの姿から、実はとても普遍的な感傷を炙り出してみせる。山本周五郎はそれを、生きていく中で否応なく感じる「かなしみ」として本の中に定着させています。これを心から納得させる文章など、おいそれと書けるものではないでしょう。だからこそ、ぼくたちは山本周五郎を読むのかもしれませんね。

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