伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』(創元推理文庫)
伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』を読んだ。
現在と過去が交互に描かれる構成は、ミステリ読みにすぐさま叙述系のトリックを想起させる。その意味で、この本の仕掛けを予測するのはそう難しいことじゃない。著者の作品中、最もシンプルな部類のミステリだろう。そして著者の世界を知るにはうってつけの作品だ。
もちろん、メイントリックともいえる大仕掛けがあるからといって、そればかりが魅力の作品というわけではない。ぼくなんかはむしろ、ミステリ部分にはそれほど執着していない。どちらかといえば文章やキャラクター造形にこそ、著者の個性は炸裂している。
登場人物たちの言動はときに非現実的で、行動原理は浮世離れして一途だ。ファンタジックといい換えてもいい。現代日本を舞台にしてはいるけれど、繰り広げられる人間模様はあまりに心地好い絵空事である。そこに現実の不条理として卑劣な犯罪が紛れ込んでくる。
お陰で本筋はどこまでもやりきれない話だ。
中盤以降、読者は否応なく最悪の事態を予想させられる。この辺りの筆運びは実に達者である。厭な予感よ、どうか当たらないで欲しい。そんな思いに駆られながら、ページを繰る手が止められない。厭な想像は膨らむばかりである。そして、それは現実のものとなってしまう。
しかも、その悲劇は冷静な判断と適切な行動によって防げたかもしれない類のものである。圧倒的な力による悲劇ではない。これがなんともいえないシコリを残す。単純で納得しやすい大義名分は生まれない。ここが肝要である。これは決して勧善懲悪の英雄譚ではないのである。
死者のためではない。現実と折り合いをつけるための闘いが、ここから始まる。現在視点の主人公は、その仕上げ段階に付き合わされる。これが著者らしいヒネリの効いた導入となっているのはさすがだ。最もリアルな場面をファンタジーでカムフラージュすることに成功している。
一見「河崎」と「ペット殺し」の闘いは、ファンタジーとリアルの闘いのに見える。けれども、ファンタジーに酔いたい読者にとって、後に明らかになる「河崎」の闘い方は受け入れ難いものかもしれない。モラルの問題でいうのではない。それがリアル側のやり方だからである。
とはいうものの、彼は最後までリアルに着地することはない。そもそもが、リアルを飲み込む形でファンタジーを生きている。だから、彼は最後にコインロッカーの前でいう。これは「代用品」なんだと。分かってやっているのだと宣言しているようなものである。
不条理な現実を生きる、これはひとつのヒントでもある。
ところで、“陽気なギャングが地球を回す”に続いて、この『アヒルと鴨のコインロッカー』も映画化されている。すでに撮り終えていて、2007年5月以降、物語の舞台となった仙台を皮切りに、順次全国公開となるようだ。映像化する小説としては、悪くない選択だと思う。
叙述トリックの処理が多少気にかかるところではあるけれど、キャラクターにスポットをあてて見るなら、かなり実写向きの題材だ。これまでの伊坂作品の中でも、最も分かりやすくストレートな作品である。キャスト名を見る限り、配役にも特に違和感はない。
そして主題歌にはちゃんと‘風に吹かれて’が使われている。
【関連リンク】
・Bob Dylan ‘The Freewheelin' Bob Dylan’
posted in 06.12.31 Sun
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