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2007年03月30日

山本周五郎『小説 日本婦道記』(新潮文庫)

山本周五郎『小説 日本婦道記』(新潮文庫)山本周五郎『小説 日本婦道記』を読んだ。

いかにも誤解を生みそうな書名だ。実際、著者自身思いがけない非難を受けたこともあったらしい。日本女性たるもの斯くあるべし。確かに、そんな先入観を持たれても仕方のない書名だとぼくも思う。けれども、読む進む内に、どうもそういう話ではないらしいと分かってくる。

これはあるひとつのテーマに沿って書かれた短篇を集めたもので、解説によると全部で31篇が書かれたのだという。その内ここに収録されているのは、著者自身が「定本」として選定した11篇ということらしい。完全な読み切りなので、各篇に主題以外の繋がりはない。

確かに、ここに出てくるのは、一見して「尽くす」女性たちである。主人を立てるため、家を守るため、主家に報いるため、恩人に仇なさぬため、多くの可能性を犠牲にし、自らの幸福を投げ打って生きているように見える。ほとんど滅私奉公の世界である。

これを教訓と捉えるなら、不当だといいたくもなるだろう。女性は家を守るために生きているのでも、ただ主人のために生きているのでもない。嫁ぎ、亭主に尽くし、子を産み、家を守るのが女の幸せだなどとは、あまりに勝手な押し付けだと、そういうことになる。

果たして、この作品は、本当にそんなことを書いているのか。答えは否だろう。これは当人がそんなつもりで書いたのではないといっているから否だとかいう話ではない。読み進む内に、ここに登場する女性たちは、決して男性社会の犠牲者なんかではないということが見えてくる。

要するに人の幸福を表面的な自由などと結びつけて考えるから読み誤るんじゃないだろうか。たとえば「風鈴」という話の中で著者は、登場人物のひとりに生き甲斐ということについて語らせている。また、「桃の井戸」では主人公の女性の幸福観が歳月を追って語られる。

これらなんかはとても直截的で分かりやすい。

ここで語られているのは、生き甲斐や幸福というものの多面性であり、一筋縄で行かない困難さだ。何も女性はこういう風に生きるのが幸福なんだと、教訓を押し付けているわけではない。何に生き甲斐を感じ、幸せと思うかは自分次第だと、まずもってそれが大前提なのである。

だから、登場する女性たちが直面するのは、いつだって極めて普遍的な問題だ。豊かになることが幸せか。自由であることが幸せか。生き甲斐とは何か。人に尽くして生きることは不幸か。家を守るためにすべてをかける人生は不幸か。人に認められない努力は報われないことと同義か。

描かれるのは、こうした唯一の答えなどない問題に、自分なりの答えを見付けた、或いは、見付けつつある女性たちの姿である。だとすれば、それがたとえ表面的には恵まれない人生に見えたとしても、やはり充実した幸福な人生と捉えるべきだろう。

いうまでもなく幸福などというのは主観的なものだ。

それを大前提に、著者が思う美しい、愛すべき女性たちを書いた。

これはそういう作品なんだろうと思う。

2007年03月26日

藤岡真『ゲッベルスの贈り物』(創元推理文庫)

藤岡真『ゲッベルスの贈り物』(創元推理文庫)藤岡真『ゲッベルスの贈り物』を読んだ。

褒めるべきか貶すべきか迷う。それも、面白いにも関わらず、だ。これほど最後まで腰の落ち着かない作品も珍しい。全体として見たときのアンバランスが、ミステリとしての整合性の外側でそこはかとない拒絶反応を生んでしまう。いうなれば、あっと驚くミステリを志したはいいけれど、驚くべき結末の趣旨が期待から外れている。そんなところだ。

タイトルにある贈り物の正体こそが、ひとつの物語の焦点だと誰もが思う。これがみごとに裏切られるのである。ミステリとしてのこの本の見所はまったく別の場所にある。これは少々やり方がせこい。伝奇か冒険かというような、およそミステリらしくない冒頭からして、その方面への期待を煽っているのだから、これは不当ないいがかりではないと思う。

また、ベースがドタバタなのはいいのだけれど、シリアスな要素の入れ方が拙い。読んでいて、悪乗りなのか本気なのか分からなくなることが少なくない。どうせ崩すなら、もっと徹底的にやった方がいい。元々、そういう方面が得意な作家らしいので、ミステリ部分に入れ込むあまりうまく羽を伸ばせなかったのかもしれない。もったいない。

本題に入ると「おれ」パートと「わたし」パートが繰り返されるという、新本格以降の作品群に親しんだ人にはおなじみの趣向が展開される。だから、こちら方面の仕掛けがあることは、好きな人には一目瞭然なのである。であれば、先に書いた謎と、こちらの仕掛けがアクロバティックにアウフヘーベンされる瞬間を期待するのは無理からぬところだろう。

しかも、何が起こってもおかしくないようなスラップスティックなノリが、その印象を後押ししてもいる。ぼくなどは、どんどんヒートアップして、しまいには一旦落ちのついた理論にまで風穴を開けるようなどんでん返しを期待してしまった。これはこれは極端な読み方ではある。ここまでいくとさすがにぼくが悪い。それは自覚している。

もう、はっきり書いてしまうけれど、贈り物の正体などは腰砕けもいいところである。もったいぶった割には、さしたる仕掛けも意外性も劇的な演出もないまま、だらりとネタが明かされる。間違ってもここに伝奇小説的な快感なんかを期待してはいけない。あくまでも、これは堅実な推理小説を志して書かれた作品なのである。

ということなので、もちろんSF的なガジェットにも過剰な期待をしてはいけない。ドミノというバーチャルアイドル的なものが扱われていて、その正体を追うというがひとつの本筋になっている。にもかかわらず、そこにSF的な愉しみはほとんど見い出せない。何も時代的に作品内のコンピュータ技術が過去のものになってしまったからいうのではない。

これが最先端だった時期に読んだとしても、印象はさして変わらなかったはずだ。要するに飾りなのである。面白いエピソードとして消費されるのみといっていい。冒頭のネタと合わせて、本書の2大ミステリーともいうべきこれらの謎が、実は最後まで興味を引っ張るための捨てネタに過ぎないところに、この本の型破りな性格がよく出ている。

この壮大な釣りに踊らされて目を曇らされた読者が、見えない角度から飛んでくるフックに脳を揺らされる。これはそういう作品なのである。だからこそ、最後まで読者を引っ張っていくネタはどれも思わせ振りで面白いし、小出しにされていくヒントも絶妙である。オチを知るまでは大抵の人が全力で楽しめる。つまり面白い。

ただし、人間にフォーカスしてストーリーを愉しむ人には、やっぱり向かないかもしれない。ミステリ的趣向に奉仕しない人間ドラマなどは、邪魔にならない分かりやすさが優先されているのだろう。陳腐この上ない。ドタバタ劇風の語りがここで生きてくる。この失笑もののチープな人間ドラマが許せてしまう。わざとやっているのかもしれない。

後はメイントリックの所在そのものを許容できるかどうか。

こればかりは読み手の資質によるとしかいいようがない。

2007年03月08日

野中柊『ジャンピング☆ベイビー』(新潮文庫)

野中柊『ジャンピング☆ベイビー』(新潮文庫)野中柊『ジャンピング☆ベイビー』を読んだ。

ベイビーと愛猫ユキオの生と死の狭間に、別れた元夫婦の今と昔が淡々と綴られる。それだけといえば、それだけの物語だ。ふたりは単純に感情移入できるほど簡単なキャラクターではないし、物語自体に明確なメッセージ性も感じられない。キャラクターを感情移入用の触媒ではなく本当に個として描くとこうなるという見本かもしれない。

ただ、この小説は少し男にはキツイところがある。

元夫のウィリーにシンパシーは感じない。それでも、女性が何かを決意したり、何かを得たり捨てたりするトリガーが見えないという点で、彼は普遍的な男性といえるのかもしれない。何やら責められているような気持ちになる。しかも、そうした行き違いが、多くの現実的な問題の中に埋もれるようにして、けれども決定的に影響している。

鹿の子にしてもウィリーにしても、誰もが惚れてしまうような空想的な男女としては描かれない。そもそも人間関係のありようというのは、易々と傍目から推し量れるものではないだろう。ああ、あのルックスにやられたんだなとか、あの財力に目が眩んだんだなとかいうような解りやすい関係などそうそう転がっているものではない。

この本を読んでいると、不思議に私小説的な空気を感じてしまう。もちろん、どんなフィクションでも、著者の中にないものは出てきようがない。その意味では、多かれ少なかれキャラクターたちは著者の分身であろう。けれども、そうした事情を差し引いても、鹿の子という人間の描かれ方に一人称的なリアリティを感じるのである。

それはつまり、物語的なステレオタイプから逸脱しているということである。換言すれば、解りやすいキャラの立ち方をしていない。問題に直面したときの鈍い反応も、安易に成長しない内面も、読み手の期待に応えてくれるようなものではない。表面的なところでシンパシーを感じるようには書かれていないのである。

だからこそ、これほど問題ばかりが山積みで起伏のない物語が物語り足り得る。それは自分を重ねる物語ではない。ある誰かの物語である。そして傍観者でありながら、能動的に知ろうとし、感じようとする物語である。こうした人物造形の仕方が、私小説的と感じる原因なんだろうと、ぼくは勝手に納得している。

もっと端的な理由もあるにはある。猫と映画である。同じ著者の『参加型猫』という作品で、主人公夫妻に拾われた子猫はチビコと名付けられていた。そして、彼らは家中に映画のポスターを貼っている。この作品にもチビコという猫が出てくる。そして、主人公の鹿の子の家には何枚も映画のポスターが貼られている。

結局、猫とゴダールが好きなのは、小説の主人公たちではなく著者自身なんだろう。そう思うのが自然である。だから、野中柊という個性が描き出すのは、最大公約数的な感動や共感ではない。極私的な物語である。心地好さとは無縁といってもいい。他人の目で見る世界なんてものは、居心地が悪くて当たり前である。

ユキオを供養した後、ウィリーと鹿の子は、ウィリーのベイビーに会いに行く。何もかもがうまくいっていないような茫洋とした鹿の子の今に、突如、光が射す。ユキオの死に端を発した物語は、赤子がみせるただそこにあるだけの生によって、唐突にクライマックスを迎える。その天啓は、やっぱり鹿の子だけのものである。

だからこそ、このシーンは重要だ。そこに描かれているのは、個人と世界との関わり方を変える何かである。そして他人とは決して共有できない、言葉にならない何かである。それはたぶん、探したり見つけたりするものでさえない。自分だけのジャンピング☆ベイビーは何の前触れもなく目の前に現れ、それと感得するものなんだろう。

これはつまり、自分だけの物語を肯定するための物語なのかもしれない。

2007年03月07日

大竹文雄『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには』(中公新書)

大竹文雄『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには』(中公新書)大竹文雄『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには』を読んだ。

巧い。こんな風に説明されると、すんなり頭に入ってくる。問いの立て方が、とても下世話で興味をソソラレル。たとえば、「イイ男は結婚している」というのは本当か、みたいなことを経済学的な観点から考察してみせる。これで、負け犬の遠吠えを聞いているだけでは見えてこない、大切な問題が見えてくる。

相関関係と因果関係を混同してはイケナイ。

これを見誤ると、物事を見誤る。論理思考のトレーニングといってもいい。ちゃんと読めば、数字のマジックに多少は強くなると思う。統計がいかに解釈次第で意味を変えてしまうものか、それに気付くだけでも意味があるだろう。たとえば、結婚と収入の因果関係だけでも、まともに考えれば相当に影響要因は多岐にわたる。

統計上、既婚男性の方が独身男性よりも高収入だったとして、「経済力のある男は結婚している」と考えるのは早計だという話である。昇給に合わせて結婚したのか、結婚したらやる気が出て評価が上がったのか、会社が既婚者を優遇した結果給料があがったのか、はたまた、まったく予想外の要因が別にあるのか。

それが分からない以上、結婚したい女性が身近な未婚男性と余所の亭主とを比べて悲観するのは、実に非論理的な態度だといわざるを得ない。まあ、中には計算高い女性もいて、どこかの女が家庭向きかつ高収入に調教してくれた男を、横から掻っ攫うのがイチバン楽で確実だ、などと思ってる可能性は否定できない。

ともあれ、本書の前半では実に親しみやすい話題から、巧みに経済学的思考のエッセンスを導き出して伝授してくれる。ほとんど経済学を意識して読む必要すらない。ちょっと気の効いたエッセイでも読んでいるような気分で、基本的な考え方が漠然と分かってくる。この辺りのやり方はさおだけ屋の本に近いかもしれない。

これが後半に入ると、何やら書き振りが変わってくる。より端的にお金の話が中心になってくるのである。ただ、年功賃金と成果報酬の経済学的な意味や、年金制度の問題点など、気になる話題が目白押しなのは変わらない。うまく素人の興味を維持しつつ、ちょっと経済学寄りな話になってくる。

因果関係についで重要なキーワードとして設定されているのが、インセンティブという考え方である。いわゆる「出来高払い」の意味ではなくて、単語本来の意味…つまり「頑張る動機」とでもいうような意味合いである。この辺りの説明はプロスポーツ選手の給料などを俎板に載せて、これまた解りやすく説明されている。

経営者が社の利益を最大化するために取るべき方策はどうあるべきか。

人は必ずしもお金のためだけに頑張るのではない。金銭的インセンティブ、つまり、沢山お金の欲しい人は沢山頑張る、という構図はとても解りやすい。けれども、問題は非金銭的インセンティブである。そんなことも含めて、成果報酬というシステムがなかなかうまくいかない理由がこれを読めばよく解る。

経済学的思考といっても、これは考える範囲を広げれば、ほとんど論理思考というのと似ている。だから、実はこれほど身も蓋もない話はないともいえる。たとえば自分の給与に不満があって、おれは会社に不当に搾取されているんだ!なんて憤っている人なんかは、一度これを読んで考えてみるといいかもしれない。

もしかすると半数くらいは、妥当だったり根拠薄弱だったりするんじゃないだろうか。それを知ることが幸せかどうかは別として、こんなに愉しく読めて、新しい視点まで手に入る本というのは珍しい。漠然と解った風に見ていた時事風俗が、少し輪郭を強めて見える。ちょっとばかり前より世間が良く見えるような気がする。

これぞ新書の醍醐味だろう。


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酒井順子『負け犬の遠吠え』(講談社文庫)
山田真哉『さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学』(光文社新書)

2007年03月02日

三浦しをん『秘密の花園』(新潮文庫)

三浦しをん『秘密の花園』(新潮文庫)三浦 しをん『秘密の花園』を読んだ。

このタイトルで女子校モノとくれば、誰しもがなにがしかのイメージを持つに違いない。思春期、自意識、壊れ物、恋愛、性、潔癖、自己陶酔…気だるくて危うい、甘いようでシビアな閉じた世界。本を開くと、そんな期待通りの世界が広がっている。ありがちといえばありがちだし、語り口が優れて際立っているわけでもない。なのに、どこか気になる。引っかかる。

それは登場する女子高生たちが、あまりに解かりやすい「若気の至り」を演じて見せるせいだろうか。ぼくは男で、高校は男子校だった。この作品の舞台とは対極の青春時代を送ったといっていい。それでも彼女たちの自意識やそこから零れ出る言葉には、つつかれたくない過去の自分を見出してしまう。もちろん、似たようなことがあったわけでも、したわけでもない。

そもそもぼくの高校時代などは、鬱屈するだけのたいした理由もなく、ぼんくらなりに平和で、特筆すべき屈折など起こりようもなかった。だから、いかにも思春期的な感受性の発露や、大人の世界との断絶感というのは、ある意味で憧れの的だったのである。そして、そんなポーズの中に生きたがっていた過去の浅はかな自分を思って今の自分は苦々しく思うというわけである。

おそらくその手の妄想の源流をたどると、大抵は先人が残したフィクションに行き当たる。少なくともぼくの場合はそうだ。実体験などない。文庫のあとがきにも挙げられているけれど、ぼくが真っ先に思い浮かべたのは吉田秋生の漫画、『櫻の園』である。漫画はもちろん何度も読んだし、実写化された映画版“櫻の園”だって何度も観た。要するに好きなのである。

そしてこの小説は、妄想の思春期のありとあらゆる要素が、存分に詰まった作品なのである。大人の気持ちで読むなら、それは半頁毎にツッコミを入れなきゃすまないような、あまりに青臭い青春劇である。つい、そんな気持ち社会に出たらいっぺんに吹っ飛んじまうよ、なんて余計な口をはさみたくなる。それこそがこの手の本の醍醐味といってもいい。

もちろんイマドキらしいエピソードもちゃんと効いていて、古典的な中にも一筋縄でいかない時代の息吹が感じられる。淡々としながら、かなりセンセーショナルなエピソードもある。トラウマ系男性不審の美少女那由多が、その素質を開花させて不埒な痴漢を撃退するシークエンスなど、酷く生々しくて清々しさの欠片もない。この辺りのリアルさがまた痛い。

どこか生硬さすら感じる淡白な文章には、けれども、剥き出しの、生々しい痛みが溢れている。それは否応なく生きることの痛みであり、人との関わりが生む不可避の痛みである。それを適当にうっちゃって軽く受け流したり、忘れた振り、気付かない振りをしたりする。それが処世術というものだし、自分がヒーローやヒロインではないと自覚することでもある。

彼女たちはそのほんの少し手前に立っている。

だから、苦しいはずのその場所をぼくたちはつい羨んでしまうのかもしれない。


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吉田秋生『櫻の園』(白泉社文庫)
中原俊監督“櫻の園”

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名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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