山本周五郎『小説 日本婦道記』(新潮文庫)

山本周五郎『小説 日本婦道記』(新潮文庫)山本周五郎『小説 日本婦道記』を読んだ。

いかにも誤解を生みそうな書名だ。実際、著者自身思いがけない非難を受けたこともあったらしい。日本女性たるもの斯くあるべし。確かに、そんな先入観を持たれても仕方のない書名だとぼくも思う。けれども、読む進む内に、どうもそういう話ではないらしいと分かってくる。

これはあるひとつのテーマに沿って書かれた短篇を集めたもので、解説によると全部で31篇が書かれたのだという。その内ここに収録されているのは、著者自身が「定本」として選定した11篇ということらしい。完全な読み切りなので、各篇に主題以外の繋がりはない。

確かに、ここに出てくるのは、一見して「尽くす」女性たちである。主人を立てるため、家を守るため、主家に報いるため、恩人に仇なさぬため、多くの可能性を犠牲にし、自らの幸福を投げ打って生きているように見える。ほとんど滅私奉公の世界である。

これを教訓と捉えるなら、不当だといいたくもなるだろう。女性は家を守るために生きているのでも、ただ主人のために生きているのでもない。嫁ぎ、亭主に尽くし、子を産み、家を守るのが女の幸せだなどとは、あまりに勝手な押し付けだと、そういうことになる。

果たして、この作品は、本当にそんなことを書いているのか。答えは否だろう。これは当人がそんなつもりで書いたのではないといっているから否だとかいう話ではない。読み進む内に、ここに登場する女性たちは、決して男性社会の犠牲者なんかではないということが見えてくる。

要するに人の幸福を表面的な自由などと結びつけて考えるから読み誤るんじゃないだろうか。たとえば「風鈴」という話の中で著者は、登場人物のひとりに生き甲斐ということについて語らせている。また、「桃の井戸」では主人公の女性の幸福観が歳月を追って語られる。

これらなんかはとても直截的で分かりやすい。

ここで語られているのは、生き甲斐や幸福というものの多面性であり、一筋縄で行かない困難さだ。何も女性はこういう風に生きるのが幸福なんだと、教訓を押し付けているわけではない。何に生き甲斐を感じ、幸せと思うかは自分次第だと、まずもってそれが大前提なのである。

だから、登場する女性たちが直面するのは、いつだって極めて普遍的な問題だ。豊かになることが幸せか。自由であることが幸せか。生き甲斐とは何か。人に尽くして生きることは不幸か。家を守るためにすべてをかける人生は不幸か。人に認められない努力は報われないことと同義か。

描かれるのは、こうした唯一の答えなどない問題に、自分なりの答えを見付けた、或いは、見付けつつある女性たちの姿である。だとすれば、それがたとえ表面的には恵まれない人生に見えたとしても、やはり充実した幸福な人生と捉えるべきだろう。

いうまでもなく幸福などというのは主観的なものだ。

それを大前提に、著者が思う美しい、愛すべき女性たちを書いた。

これはそういう作品なんだろうと思う。

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