野中柊『ジャンピング☆ベイビー』(新潮文庫)

野中柊『ジャンピング☆ベイビー』(新潮文庫)野中柊『ジャンピング☆ベイビー』を読んだ。

ベイビーと愛猫ユキオの生と死の狭間に、別れた元夫婦の今と昔が淡々と綴られる。それだけといえば、それだけの物語だ。ふたりは単純に感情移入できるほど簡単なキャラクターではないし、物語自体に明確なメッセージ性も感じられない。キャラクターを感情移入用の触媒ではなく本当に個として描くとこうなるという見本かもしれない。

ただ、この小説は少し男にはキツイところがある。

元夫のウィリーにシンパシーは感じない。それでも、女性が何かを決意したり、何かを得たり捨てたりするトリガーが見えないという点で、彼は普遍的な男性といえるのかもしれない。何やら責められているような気持ちになる。しかも、そうした行き違いが、多くの現実的な問題の中に埋もれるようにして、けれども決定的に影響している。

鹿の子にしてもウィリーにしても、誰もが惚れてしまうような空想的な男女としては描かれない。そもそも人間関係のありようというのは、易々と傍目から推し量れるものではないだろう。ああ、あのルックスにやられたんだなとか、あの財力に目が眩んだんだなとかいうような解りやすい関係などそうそう転がっているものではない。

この本を読んでいると、不思議に私小説的な空気を感じてしまう。もちろん、どんなフィクションでも、著者の中にないものは出てきようがない。その意味では、多かれ少なかれキャラクターたちは著者の分身であろう。けれども、そうした事情を差し引いても、鹿の子という人間の描かれ方に一人称的なリアリティを感じるのである。

それはつまり、物語的なステレオタイプから逸脱しているということである。換言すれば、解りやすいキャラの立ち方をしていない。問題に直面したときの鈍い反応も、安易に成長しない内面も、読み手の期待に応えてくれるようなものではない。表面的なところでシンパシーを感じるようには書かれていないのである。

だからこそ、これほど問題ばかりが山積みで起伏のない物語が物語り足り得る。それは自分を重ねる物語ではない。ある誰かの物語である。そして傍観者でありながら、能動的に知ろうとし、感じようとする物語である。こうした人物造形の仕方が、私小説的と感じる原因なんだろうと、ぼくは勝手に納得している。

もっと端的な理由もあるにはある。猫と映画である。同じ著者の『参加型猫』という作品で、主人公夫妻に拾われた子猫はチビコと名付けられていた。そして、彼らは家中に映画のポスターを貼っている。この作品にもチビコという猫が出てくる。そして、主人公の鹿の子の家には何枚も映画のポスターが貼られている。

結局、猫とゴダールが好きなのは、小説の主人公たちではなく著者自身なんだろう。そう思うのが自然である。だから、野中柊という個性が描き出すのは、最大公約数的な感動や共感ではない。極私的な物語である。心地好さとは無縁といってもいい。他人の目で見る世界なんてものは、居心地が悪くて当たり前である。

ユキオを供養した後、ウィリーと鹿の子は、ウィリーのベイビーに会いに行く。何もかもがうまくいっていないような茫洋とした鹿の子の今に、突如、光が射す。ユキオの死に端を発した物語は、赤子がみせるただそこにあるだけの生によって、唐突にクライマックスを迎える。その天啓は、やっぱり鹿の子だけのものである。

だからこそ、このシーンは重要だ。そこに描かれているのは、個人と世界との関わり方を変える何かである。そして他人とは決して共有できない、言葉にならない何かである。それはたぶん、探したり見つけたりするものでさえない。自分だけのジャンピング☆ベイビーは何の前触れもなく目の前に現れ、それと感得するものなんだろう。

これはつまり、自分だけの物語を肯定するための物語なのかもしれない。

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comment - コメント

はじめまして。コメント、TBありがとうございました。
同じハンドルネームの方をたまにお見かけするのですけど、りりこはririkoよりもlylycoの方がかっこいいですねー。
やはり小説の中でも男性は男性をより注目するものなのですね。

ririkoさん、いらっしゃいませ。
確かに、男は男性キャラが気になるという側面はあるかもしれませんね。ただ、女性が主人公の小説だと、普通に女性に感情移入していたりもするので、案外作品にもよるのかもしれません。この作品の場合はキャラクターに感情移入しにくかった分、分析的な目がウィリーにいってしまったという気もします。

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