古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』(文春文庫)

古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』(文春文庫)古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』を読んだ。

これほど静かで鮮烈な狂気の物語があり得るのか。戦争の世紀を犬の視点で語る。それも時代の徒花たる軍用犬の、或いはそれに連なる誇り高き血族の。あたかも、著者自身が犬の視線を手に入れたかのように。いや、著者の言葉を借りるなら、犬に憑かれていた、というべきか。強烈なビートにのって言葉は叩き込まれる。無二のリズムが滾るような疾走感を生みだす。この類希なファンタジーは、平然として土足でリアルを踏み荒らす。犬たちは、毅然として肉趾で世界を疾駆する。フィクションとリアルの境界を破壊し、ブンガクとエンタメの境界を粉砕する。

1943年、犬たちの物語は「奇跡の作戦」の舞台、第二次大戦下のキスカ島に幕を開ける。Wikipediaでキスカ島撤退作戦の項を引くと「上陸したアメリカ軍の見たものは、遺棄された数少ない軍需品と数匹の犬だけであった。」という記述が見られる。著者はその犬たちに歴史を与える。波乱に満ちた犬たちの正史は、運命によってアメリカ本土、アラスカ、朝鮮半島へと舞台を広げ、その血統を瞬く間に世界に広げていく。二十世紀の戦争史を再構築しながら、犬たちは駆け、闘い、殖え、死んでいく。世代を超えて、運命に導かれ、カタルシスに向かって疾走する。

平行して、もうひとつの物語が語られる。舞台はソ連解体後のロシア。大主教を名乗る超人的な老人の暗躍が描かれる。その静かな狂気、或いは、ただ自ら狂気と名付けただけの純然たる正気が、ペレストロイカのロシアで最期の命を燃やす。もちろん、彼の物語と犬の物語はひとつに綯われる。犬の物語へと収斂する。確かに、彼ら犬たちを統率するのは人間かもしれない。それも大主教を名乗るひとりの老人だ。けれども、彼はすであちら側の人間だ。堕ちたのではない。堕ちないために犬の世界を選んだ。だから、やっぱりこれは間違いなく犬たちの物語だ。

そこには確かに犬の世紀が存在する。ぼくたちの知る世界と二重写しとなって、犬たちの世界は立ち上がってくる。老人は少女に犬の名を与える。侮辱ではない。むしろ、正統たるを認めてその名を与える。そして、革命は意図され、実行される。革命は、けれども、成らない。正史は次の世代へ引き継がれる。犬の名を持つ極東の少女へ。全篇を貫く声がある。「生キロ」。声は繰り返し呼びかける。けれども、運命は犬たちを翻弄する。ときに容赦なく死を齎す。それでも死に絶えはしない。血は受け継がれる。生き延びる。生きるための靭さが受け継がれる。

この想像力に富んだ「正史」は、ボリス・エリツィンに捧げられている。

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