古川日出男『13』(角川文庫)

古川日出男『13』(角川文庫)古川日出男『13』を読んだ。

やっぱり圧倒的だ。第二部に登場する映画監督はいう。「いいか、映画では“神は細部に宿る”んだ」…この言葉はそのまま古川日出男の作品にも通じる。本書なら第一部においてその傾向は顕著だ。色盲の少年響一が生み出す躍動的で豊穣な色彩の世界、ザイールの深奥に横たわるジャングル、狩猟採集民と農耕民らの生活、野生動物たち…。ストーリーだけでは語れない。選び取られる題材、舞台、そして圧倒的な描写力。それらがめくるめく読書体験を惹起する。脳が極彩色に彩られ、心は行間に捕らえられる。こんなことができる作家はそうはいない。

メタファーは繰り返される。「神」だ。タイトルにもなっている「13」は、元々はある傭兵の通り名に過ぎない。この傭兵は死の淵で錯乱し、その錯乱から13の憑依が始まる。13はローミという少女の中に記憶され、長じてひとつの人格へと生成される。それは周囲の宗教的圧力による人格の解離として説明される。つまり、第一部における神の依代たる13は読者にとって一切の神秘性を持たない。むしろ、生死の淵を彷徨い色彩の彼岸を見た響一の方が神懸かって見えるくらいだ。そして、本来神秘ではない13の宗教的欺瞞は取り返しの付かない悲劇を生む。

その最初の悲劇が第一部に幕を下ろし、第二部が幕を開ける。舞台は未開の森から都会へ。そして冒頭の一文の意味が明かされていく。文章は会話が主体となり、登場人物たちによって本物の映像、本物のサウンドが語られ、生み出されていく過程が描写されていく。そして、メインの舞台から退いたはずのザイールで第二の悲劇。13の消滅。この13の消失劇でついに神秘は起こる。さも当たり前のように。あまりにも自然に。そしてごくささやかに。「神」は未だ顕現しない。けれども、天使は現れ、神に到る道はよりはっきりと予感される。なんという展開か。

いったいどうすればこれだけのイマジネーションを言葉に置き換え得るのか。尋常ではない言葉の密度。意味の集積。それらが独特のリズムを持って文章となり脳を幻惑する。あたかも眼前に新たな世界が立ち上がってくるかのように。現実を押し退けて幻の世界に取り込まんとするかのように。そして、その幻はどこまでリアルである。それは確かに、その時、その場所で、その通りに起こったに違いない。そう思える。徹底的に描き込まれた細部が、現実を下敷きに創り上げられた細密画のような舞台が、ファンタジーを廃した挿話の奔流が、リアルを担保する。

読書を愉しみたい人なら絶対に読み落とせない一冊だ。

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