古川日出男『アラビアの夜の種族』[全3巻](角川文庫)

古川日出男『アラビアの夜の種族』[全3巻](角川文庫)古川日出男『アラビアの夜の種族』を読んだ。

奔放な感性と緻密な企みが見事に融合している。この面白さは、単にエピソードの集積としての物語の面白さに収まらない。物語はフィクションの枠をはみ出さんと冒頭からその牙を剥いている。もちろん、こうした額縁を持った小説は古くから多くの作家によって書かれてきた。そうした系譜に連ねても、この念入りな仕込みは特筆に価するように思う。

著者は、訳者として本書のまえがきに登場する。『アラビアの夜の種族』は作者不詳の物語の英訳版を底本に、著者が邦訳した書物として紹介されるのである。そこでは物語の成り立ち、英訳版との出会いなどがまことしやかに語られ、メタフィクショナルな没入を促している。これが多重構造をなす物語の入り口となる。同時に本書の企みを予言してもいる。

本編は、さらに2層の物語が併走する。ベースとなるのはナポレオンのエジプト侵攻をエジプト側から描く一種の「歴史」物語。この「歴史」物語の中で活躍するのがアイユーブなる奴隷階級の青年だ。主人に絶大な信頼を得ている聡明で美しい筆頭奴隷アイユーブは、現代兵器を擁した圧倒的に強大なナポレオン軍の侵攻を止めるための秘策を実行する。

それが読者を破滅に導く書物の執筆というトンデモな秘策なのである。

実はここでアイユーブは主人を騙している。彼は『災いの書』の伝説を話して聞かせ、ついにそれを見付けることに成功したという。そして、今まさにフランス語に翻訳しているところだと説明するのである。ところが、そんな書物は実在しない。要するに翻訳は嘘なのである。ならば、まえがきの翻訳も嘘だと想像することは難しくない。なんと巧妙な。

さて、アイユーブが実際に見付けたのは伝説の書物などではなく、伝説の夜の語り部である。そして、入れ子の2層目が語り部ズームルッドが語る物語ということになる。ズームルッドの語りが当代随一の書家によって書き取られ、今まさに創られる『災いの書』となるのである。これが面白すぎて戦争を止めてしまうほどの物語だというのだから凄い。

この2層目こそが物語としての主役である。

これだけ大風呂敷を広げておいてつまらなかったら顰蹙もいいところである。古川日出男という作家はつくづく強心臓だと感嘆せざるを得ない。そしてもちろん、面白い。そこで語られるのは千年の時を越える剣と魔法の物語である。醜怪にして邪悪な大魔術師アーダムと蛇神ジンニーアの物語。この孤独な主人公アーダムの魅力を説明するのは難しい。

彼は王の子として生まれながら、そのあまりに醜悪な面貌故にとことん疎んじられ、愛を知らないまま魔道に堕ちる。そして、初めて愛した相手がこれまた邪悪で淫蕩な蛇神ジンニーアだったという、どこにも非の打ち所のないトラジェディック・ヒーローである。当然のように彼は裏切られ、果てしない恨みを呑んで千年の眠りに就く。

ここでさらに2人の主人公が物語に加わる。ふたりの孤児、ファラーとサフィアーンである。アルビノのファラーは魔術師の一族「左利き族」の森に育ち、王座を簒奪された第4代サブル王の嫡男サフィアーンは出自を知らぬままいかさま師集団の一員として育てられる。ファラーは悲運の中で邪の衣を纏い、サフィアーンは俗の中にあって聖性を失わない。

それぞれに個性的な2人と復活したアーダム。3人の恐ろしく立ったキャラクターたちが一堂に会する。それを思うだけでページを繰る手が止められない。魔術的地下迷宮、阿房宮を描く奔放な筆致はほとんど常軌を逸している。仕掛け云々を忘れて読んでも十分以上に面白い。否、忘れてしまうほどに面白いというべきか。

そして、著者の企みはこの入れ子構造の最下層にもしっかりと及んでいる。予定調和のごとく、第1層と第2層の境界は破られる。ことここに到って、このあまりに荒唐無稽な物語は単なるフィクションの枠を超えて現実世界をも物語化してしまう。境界の崩壊は額縁の崩壊を意味し、物語は現実に漏れ出す。或いは、現実の読者は物語の中に取り込まれてしまう。

物語は語られ、受け継がれ、拡散する。

語られたのは世界が孕む大きな物語のごく一部である。物語は新しい語り部に受け継がれ、更新される。そのとき、聞き手であり読み手である読者がその物語の登場人物でないという保証はない。そう思わせるだけの質と量を、この物語は持っている。この構成力と語りの力は瞠目に値する。「物語」の力を最大化する試みはかなりの域に達している。

百凡のメタフィクションにはない圧倒的な力を感じる作品だった。


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