伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史』(新潮文庫)
主観と客観の狭間に立つ著者の視点は、一見奇妙な均衡の上に成り立っている。
本書『兵隊たちの陸軍史』は、文字通り兵士にとっての戦争の記録である。そこには、政治的、或いは、国際的、歴史的視点などからは窺い知れない、戦いに赴く者にのみ感得し得る戦争の景色がある。戦争を実感として語り得る世代の作家として、資料にあたり、同胞の声を聞き、一冊の本に纏めた著者の声に、ぼくたちはただ虚心に耳を傾けるよりない。こんな風に書くと、ある種の偏向の臭いを嗅ぎ取って拒絶反応を示す人があるかもしれない。だとすれば、それんなものは杞憂だ。著者の具体を語る筆致は淡々として虚飾がない。悪くいえば無味乾燥ですらある。
戦争にはさまざまなレイヤーがある。もっとも具体的な戦争を戦ったのはいうまでもなく戦場に赴いた兵士たちだ。レイヤーが上層に向かうほど戦争は抽象化する。そして、抽象の頂にあったのが天皇という言葉である。常に具体を目前にせざるを得ない兵士たちは、形而上の戦争を弄んでなどいられない。その意味で彼らは極めて冷静な目で戦争を見ていたのかもしれない。だからこそ彼らの多くは、何か高邁な信念や信仰のために無謀な死を死んだり、勇敢な闘いを闘ったりできたわけではない。ただ、確かな生と確かな死の実感ばかりがあったのだと察せられる。
当然のことかもしれないけれど、そうした極限状態にあることを除けばそこに立ち現れる人間社会は、ぼくたちの生きるそれとさして違わない。そこに生じるあらゆる人間関係は、戦争によって多少デフォルメされてはいても、決して想像を絶するものではない。平時であるか戦時であるかは末端を生きる一個人にはただ環境の差でしかないのだと思える。故に、本書は戦争そのものの是非を語る視点を持たない。それは、サラリーマンの世界を描くときに資本主義的な自由競争社会の是非を問わないのと同じことだろう。個人に帰する限り、環境に絶対悪などない。
そして兵士の視点に触れることは、現代社会を見るように戦争を見ることでもある。
posted in 08.10.16 Thu
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