佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』(新潮文庫)

佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』(新潮文庫)佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』を読んだ。

純文学にいくのか。そう思った。舞城王太郎のときも思った。純文学もエンターテイメントであることに変わりはない。だから、エンターテイメントの賞から出た彼らが純文学のフィールドで活躍することに不思議はない。むしろ、このふたりの場合は自然だったとも思える。それは、彼らがストーリーやプロットで読ませるタイプの作家ではないと思うからだ。佐藤友哉のいわゆる鏡家サーガは当初ミステリの仮面を被って登場した。けれども、3作目『水没ピアノ』の頃にはもうその辺りの建前はほとんど放棄されていたと思う。そして、3作で一番面白かった。

その後、この若い著者はネタとしても酷く稚拙な「自分語り(と思われるもの)」を書いてボロボロになる。いや、実際になったのかどうかは知らないけれど、あの『クリスマス・テロル』を評価する人をあまり見た記憶がない。その文学嗜好を好意的に受け止める人はいても、それは作品自体の評価とはいえないだろう。あれは純文学へフィールドを写すための脱ミステリ宣言であり、同時にプレゼンテーションでもあったのかもしれない。そして、佐藤友哉はキャッチーなキャラクターやエピソードや緻密なプロットといったエンターテイメントの頚木から逃れた。

だから、その後の短編を集めたこの本は、ただただ絶望的な不可能性を書くためだけに紙幅が費やされる。相変わらず、わざとやっているのかどうか分からない不器用な手つきで、話としてはとても表層的で新味のない物語を綴っている。ひと昔前ならセンセーショナルだったかもしれない題材をこれでもかと投入しているのも、別にそれで人目を惹こうとしているわけではないだろう。むしろ、それがどうしたんだよという態度で、意味や理由みたいなものとは無縁であることだけが強調される。そこにある悲喜劇に因果なんかはないのである。つまり無意味である。

無意味であることやあらゆる物事の不可能性を語る。それはほとんど絶望的な闘いに思える。あんなこともこんなこともみんな無意味だとか、あんなこともこんなことも本当には為し得ないんだとか、そんな説明をするならそもそも文学なんて表現形式を選ぶ必要はない。だからぼくは、佐藤友哉が作中でテーマを直接に語っているように見える場面があっても、そんなものは実は見せかけのテーマでしかないんだと思っている。そして、彼の作品そのものが絶望的な不可能性を体現しているのではないかとも思っている。ただ、今はまだその表現が半端なだけで。

佐藤友哉にはもっと恰好の悪い純文学を書いて欲しいと思う。

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