白石一文『僕のなかの壊れていない部分』(光文社文庫)

白石一文『僕のなかの壊れていない部分』(光文社文庫)白石一文『僕のなかの壊れていない部分』を読んだ。

しんどい本だった。

これは一応小説の形をしてはいるけれど、殆ど思索のための方便でしかないように思う。生きるとはどういうことか。愛するとはどういうことか。一人称の「僕」が延々それらのことを考え続けるだけの小説といってもいいくらいだ。

「僕」はまったく気持ちのいいタイプの人間ではない。これに感情移入すると、激しく落ち込むこと請け合いだ。これほど幸せに縁遠いキャラクターも珍しい。年齢こそ29歳と大人だけれど、その弱さ、歪さは、碇シンジ君クラスといえる。自らを幸せから遠ざけることにおいて、天才的な能力を発揮するタイプだ。

読んでいて気が滅入ること夥しい。

思索が主となる作品の性格上、主人公の「僕」は地の文を含めれば、相当に饒舌だ。現実の人間の思考が必ずしも一貫性を持たないように、「僕」の主張も多分に恣意的で間歇的なところがある。その空回りっぷりは、饒舌がいかに虚しいものかを実証しているようでもある。

例えば、ある場面では「人間なんてみんな同じなのに」というようなことを考え、別の場面では「彼女は自分たちとは違う種類の人間だ」という考えに肯いてみせる。そもそも「僕」はその思考と行動にも多くの矛盾を抱えていて、読んでいて唐突な印象を受けるシーンが少なからずある。それは恐ろしく身勝手で、自他共に傷付ける以外なんの効力も持たない。

そこに納得のいく説明はない。

他者との関係を求めながら、自分を含め、深く関わろうとするあらゆる人間を、徹底的に傷付け続けずにいられない思考と行動。それだけが「僕」唯一の一貫性といえるのかもしれない。

文章の読み易さに比して、これほどエンターテイメントしていない小説も珍しい。つまらない本だという意味ではない。むしろ、かなり興味深い作風だと思う。ただ、読むときは少しの覚悟が必要だ。全く面白がれるようなものではない。読者が物語に望むような一切の安定を放棄して、ラスト、著者は読者を置き去りにしていく。カタルシスも何もない。

そこには漠とした不安と、際限のない思索だけが残されている。

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